ベトナムにおける華人資本の形成と変遷

華僑研究センター客員研究員     崔 晨


 

 ベトナムは地理的にも歴史的にも中国と深いかかわりがあり、最も早い時期から中国移民を受け入れた国の1つである。他の東南アジア諸国と同様に植民地支配を受けた経験があるベトナムにおいて、国民経済の発展に伴う華人資本の発展の道のりは他の東南アジア諸国と共通するものがあるが、その一方で、各時期の社会変革によって、異なる特徴も現れている。ここでは華僑資本から華人資本までの形成と変遷について5段階に分けて概観し、今後のベトナム経済発展における華人資本の役割及びベトナム社会に与える影響について簡単にまとめてみたい。

 

フランス植民地前の時期の華僑資本(形成期)

ほかの東南アジア諸国と比べると、集団移民がベトナム華僑の特徴の1つである。たとえば、1679年、明の将軍・楊彦迪や陳上川らの部隊および一族が現ベトナムのダナンに上陸した。当時の政府は、彼らをドンナイ河流域のジャディンなどに入植させ、自治権も与えた。彼らはこれらの地域に定住して、デルタ地域の開発に当たった。当時のユエ政府はカンボジア人をメコン河の右岸に駆逐するという政策を採り、陳氏らを利用した。かくして、メコン河の左岸地域はアンナン王国に属するに至った。明の移民はドンナイ河からメコン河にかけての土地を開拓し、他の地域よりも遥かに繁栄させた。彼らはコーチシナ(現南ベトナム)の河川の合流地にタイゴン(Tai-Ngon)と呼ばれる町を建設したが、これが現在のホーチミンのチョロン地区に当たる。その後チョロンはアジア随一の米の市場となり、マレー人、インド人、ヨーロッパ人、日本人などの商人が数多く居住し、商業の町として繁栄した。

 また、1715年頃、マク・ロン(Mac-Lon)という中国人の一党がカンボジア領土であったハ・ティエン(Ha−tien、現在のベトナム南部西端の海岸)を占拠し、アンナン王の許可を得て、そこに定住した。ハ・ティエンのほかラクジャ(Rach-Gia)およびカモウ(Ca-Man)も開拓し、取引市場を設けた。18世紀のハ・ティエンは商業と中国文化の中心地であった。

 中部のホイアン(Hoi An)は当時南ベトナムの重要な港街であった。16世紀にはすでに中華街が造られ、商業と手工業の町として繁栄した。中国、日本、マレーシア、ヨーロッパなどの商船が集まって貿易を営み、多くの中国人と日本人が居住していた。17世紀以降、華僑の経済勢力が次第に拡大し、青銅製品をヨーロッパの装飾器と取引し、磁器や、お茶、硫黄、硝石、鉛などの商品は現地住民の香料や木材、米と交換した。

フランス植民地期直前まで、華僑のベトナムにおける経済力はさらに拡大した。とくに米、酒、塩などの取引において重要な地位を占め、煙草、砂糖などの貿易でも華僑が占める割合は大きかった。また、対外貿易はほとんど華僑の手によって行われていたと思われる。この時期、とくに17,18世紀、中部と南部を商業資本の中心として、北部では鉱業の開発を中心に初歩段階の華僑資本が形成されていた。フランス植民地時期の近代資本主義経済と現地伝統的経済の間の仲介者として、資本の蓄積の基礎を築いた時期と言えるだろう。

 

2 フランス植民地時代の華僑資本(発展期)

フランス植民地政府は、東南アジア諸国の植民地政府と同様に植民地の天然資源や輸出用一次製品を開発し、貿易を独占することを目的としていた。当時植民地には植民地の近代資本主義経済と伝統的経済が存在し、このような二重経済構造の中で、ベトナムの華僑も例外なく、流通における仲介者の機能を担っていた。

植民地時期以前から華僑が最も経済力を持っていたのは商業である。商業の中でもとくに精米業において独占的な地位を占めていた。華僑による米の輸出は、中国や香港、日本、フィリピン、シンガポール、インドネシアなどの国々にも及んでいた。また、酒、アヘン税などの徴収を請け負い、経済的仲介的な機能を果たし、資本の蓄積につながった。

 17〜19世紀半ばになると、華僑の資本は当初の形成段階と比べて、さらに蓄積され、発展していった。その要因としては、フランス植民地政府と現地住民との間の仲介的な立場として、商業を中心に流通と販売のネットワークを利用していたことや、フランス植民地政府の政策などにより円滑な経済活動を行うことができたことが挙げられる。

 

3 ベトナム独立後(1954年)〜1975年の華人資本(成熟発展期)

1954年ジュネーブ休戦協定が締結され、この協定によりベトナムの国土は南北に分割された。この分割状態は、1975年北ベトナム人民軍がサイゴンを占領し、1955年にゴ・ジンジェムが設立した南ベトナム共和国政府を無条件降伏させ、ベトナム共和国を消滅させるまで続いた。フランスの撤退および南北の分割統治により、1954年、4万人以上の華僑が北ベトナムから南ベトナムへ脱出した。

 

南ベトナムの華人資本

南ベトナムにおいて、ゴ・ジンジェム政権は他の東南アジア諸国と同じく、独立後に民族主義が高揚する中、民族経済を優先し、華僑の経済力を排除する政策を採った。ゴ・ジンジェム政権が実施したいくつかの法令の中で、1956年8月に実施した国際法第16条改正令と1957年4月に実施した外国人の11種営業禁止令はベトナムの華僑に大きな影響を与え、ベトナム華僑の歴史上で1つの転換期であるとも言えるであろう。

1950年代から、南ベトナム政府が実施した「国際法第16条改正令」や外国人11業種営業禁止令などの政策の実施によって、ベトナム華僑の多くが国籍を取得して華人となった。華人資本はベトナムの民族資本として政府の工業化政策に積極的に応じ、商業だけではなく、製造業でも成果を上げた。とりわけ、紡績業、プラスチック、化学品製造業などの成長が著しい。この時期のベトナム華人資本は他の東南アジア諸国の華人資本に追いつく勢いで発展した。

 

北ベトナム

当時の北ベトナムは、社会主義体制の確立に向けて戦後の経済復興を社会主義化への道とともに歩み始めた。生産水準と生産構造において工業化政策を採っていた。

この時期においては、構造改革と発展を政策重点として、数多くの国営企業が新たに設立された。それと同時に、既存の民間企業を国営企業へ再編する中間的な形態として公私合営という方式を実施し、1960年までにすべての既存民間企業を半官半民または合作社に改編する計画であった。このような状況の中、華僑も例外なく、この社会主義化の波に組み込まれていった。

 

4 1975〜1986年の華人資本(消滅期)

 1975年に南北ベトナムが統一し、社会主義共和国として、本格的に計画経済を導入し始めた時期である。社会主義体制の政策(買弁資産階級の排斥運動および1975年末の第1次と78年の第2次貨幣改革など)の実施により、大量の難民が国外へ脱出した。さらに、75年以降、中越関係の悪化や排華政策の実施、とくに79年の中越紛争によって、78、79年には「ボートピープル」と呼ばれる大量の華僑・華人がベトナムから脱出した。

一連の社会主義体制政策の実施により、1975〜79年にかけて、国内商業取引金額は毎年減少し、遂にはベトナム経済が停滞してしまった。

このような状況の中、1979年からは一転して新経済政策が実施され、工業や手工業などについて緩和政策を採るようになった。華人資本も少しずつ回復しつつあったが、同年の12月には「市場回復するための社会主義秩序」 という個人の商業活動を制限する政策を打ち出し、多くの華人企業もまた営業停止を余儀なくされた。

 

5 1986年〜現在(復活発展期)

1986年12月に開催されたベトナムの第6回共産党大会を契機として、ドイモイ改革が実施された。これを機にベトナム経済が回復し、新しい外資投資法など一連の政策が打ち出された。この改革は、価格形成を、基本的には国家が行うのではなく市場メカニズムに委ねるということで実施された点において、1985年までの改革と本質的な相違があった。

このような背景で、華人資本が積極的に動き、産業構造も多様化するようになった。1986年の34号決議によって華人の小規模な工業や手工業が急速に発展し、89年の第6期第6回中央委員会総会では華人が商業、工業、金融業、輸出入など幅広い業種の経営と発展を促進したと発表された。

華人の半数以上が集中しているホーチミン市では、1992年の統計によると、華人資本は商業の30%、軽工業の70%を占めており、華人私営企業の総生産額はホーチミン市工業生産額の40%以上、輸出総額の80%を占める。また、1980年代後半から、ベトナムから亡命し欧米諸国で活躍していた一部の華人が、送金や投資などの形でベトナム華人資本の蓄積に大きな手助けをするようになっている。1986年にドイモイ政策が実施されてから、海外で成功しているベトナムの華人企業や、シンガポール、マレーシア、タイ、香港、台湾などの国・地域の華人企業がベトナムに投資し始めている。

ベトナムの天然資源や安い労働力などは華人企業の発展に有利な条件であるが、法律の未整備や社会環境の変化などは、華人企業にとって障害となる点である。ベトナムの華人企業は、改めて資本の蓄積と発展の段階に入ったと思われるが、他の東南アジア諸国の華人資本とはいまだ比べものにならないことも事実である。

近年、ベトナムは外国からの投資先として注目され、また華商からの投資も活発化している。ベトナム政府も近代的な工業化を達成するため、華人資本をベトナムの民族資本としてより重視するようになってきている。国内外の環境から見ても、華人企業は今後さらに活躍し、ベトナムの経済発展における重要な役割を果たすことになろう。

 

まとめ

以上、ベトナムにおける華人資本発展の道のりを概括したが、各時期において、ベトナム社会の変化に応じて華人資本は異なる特徴を見せている。また、長い歴史から、ベトナム社会の発展と華人資本の関係にはいくつかの特殊性が見出せる。

すなわち、ベトナムには東南アジア的な要素と中国的な要素の両方が含まれている。東南アジア的な要素というのは、ベトナムが他の東南アジア諸国と同様に植民地支配を受けた経験があることと、独立後の工業化政策による華人資本の発展である。中国的な要素というのは、華人資本が常にベトナムと中国との関係によって変化するということだ。植民地以前のグエン朝では、清朝との関係により体制下の華僑経済活動が活発であった。1954年以降の北ベトナムおよび1975年に南北ベトナムが統一されてからは、中国と同じ社会主義国家として、中国との関係の変化によって華人資本は消滅から回復までの道のりを辿ってきた。1989年以降、ベトナム社会主義経済の発展とともに、華人資本も急速に活発化しているが、75年以前の経済における地位には遥かに及ばない。今後、ベトナム社会において、華人資本がどこまで発展していけるのか、ベトナム社会にとってどのような役割を果たせるのかを判断するには、まだ長い歳月を必要とするであろう。

ASEANへの加盟により、ベトナムは東南アジアの一員として、世界にアピールしている。その一方で、社会主義体制の経済改革において中国と同様の体験を持つことから、今後の経済発展には中国との関係も重視されることになるだろう。2006年9月にベトナム外国投資庁のグエン・アイン・トウアン副長官は「ASEANと中国との経済関係統合が進めば、ベトナムは巨大市場への玄関口になる」と語り、ベトナムの地理的な優位性をアピールした。

地理的には、ベトナムは中国とASEAN諸国との中間に位置し、両者のパイプ役として、また加工製品輸出の中継地としての役割は今後ますます活発化するだろう。ベトナムにとって、世界の華人が80%集中している東南アジア諸国および隣接する中国との関係は、華人を抜きにしては語れない。そして、ベトナムの華人と国外の華人とのいっそうのつながりにより、華人資本は発展していくと思われる。一方で、それがベトナム社会にどのような影響を与えるのか、今後の状況が注目される。

  


参考資料:

TRAN KUANH The ethnic Chinese and economic development in Vietnam Institute of Southeast Asian Studies 1993 

原不二夫『東南アジア華僑と中国』、アジア経済研究所、1993年

黄滋生、温北炎主編『戦後東南亜華人経済』、広東人民出版社、1999年

中臣久『ベトナム経済の基本構造』、日本評論社、2002  他

   

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